東日本大震災被災地を訪ねて
岩手県 山田町
【概要】
視察を行ったのは下記の通り。
・震災翌年(2012年4月下旬)
・震災2年後(2013年4月下旬)
・震災3年後(2014年4月下旬)
・震災5年後(2016年4月下旬)
・震災7年後(2018年4月下旬)
・震災8年後(2019年4月下旬)
・震災10年後(2021年4月下旬)
・震災10年後2回目(2021年9月上旬)
山田町は、北は宮古市、南は大槌町に接している。山田湾を囲むように町が広がっているほか、山田湾の南の船越湾には船越漁港がある。山田湾は湾口が狭く湾内は穏やかで津波に強いと言われ、昭和の三陸津波でも死者は少なかった。しかし東日本大震災では町全体が津波浸水高8~10m(海抜)の津波に襲われ、船越地区の浦の浜の老健「シーサイドかろ」では利用者・職員合わせて88名の死者・行方不明者がでた。船越地区では山田湾からの津波に加えて、船越湾から超えてきた津波(浸水高は海抜15m程度)にも襲われている。その結果、死者・行方不明者は宮古市を超える750名である。
【視察報告】
2012年4月29日
震災翌年(2012年4月下旬)は宮古市千鶏から山田町大沢に入り、山田湾沿いに町の中心に入った。この段階ではがれきが撤去され、一面に住宅の基礎部分が廃墟のように広がっていた。防潮堤の高さは地面から4m程度、津波によって倒壊した防潮堤も多い。
2013年4月28日
震災2年後(2013年4月下旬)は宮古市津軽石から国道45号を南下して山田町に入り、豊間根を通って山田町中心部に向かった。1年前と比べて中心部の復旧はほとんど進んでいない。
2014年4月28日
震災3年後(2014年4月下旬)は昨年と同様に宮古市津軽石から国道45号を通って山田町中心部へ入った。まず、現在は閉鎖中の県立山田病院へ立ち寄った。震災時、山田病院は1階が浸水し、停電・孤立する中で入院患者などへの対応を行った。次に山田町役場(震災では役場は無事であったが、地下が被災し自家発や非常時通信機能を失った、)や隣接の旧・山田病院を確認した。旧・山田病院では医師の近藤3兄弟が仮設医院を開設し、病院の別棟には金融機関や店舗の仮設店舗が開設されていた。その後、船越地区に移動し、山田湾に面した老健「シーサイドかろ」や障害者支援施設「はまなす学園」(いずれも社会福祉法人・親和会が運営)の跡地および当時の一時避難先の海洋センターを視察した。なお海洋センターは支援活動で不正を行ったNPO「大雪リバーネット」の活動拠点となった施設である。次に沿岸の高台(旧・陸中海岸ホテル)に設置された親和会本部を訪問し理事長に話を伺った後、浦の浜の高台に開設された親和会の3施設を確認した。その後、船越湾に面した田ノ浜地区に移動し、まず船越小学校を視察した。船越小学校の敷地は海抜13mで海抜18mの津波に襲われたが、小学校OBの用務員の方の促しで津波避難を行って児童全員が無事であった。更に、その時の教訓を踏まえ、海抜20mまで嵩上げ行い校舎を建て替えた。船越小学校の校区である田之浜地区は海岸から500mほど内陸の比較的高い地域に無被害の多数の住宅がみられ、高台移転を行っていたものと考えられる。一方、沿岸部は壊滅的被害で防潮堤などの復旧工事はまだ始まっていない。
2016年4月25日
震災5年後(2016年4月下旬)も国道45号を通り宮古市から山田町へ入った。まずJR豊間根駅近くに移設した障がい者支援施設「はまなす学園」(介護施設シーサイドかろの北隣にあった)を見て、その後に仮設・県立山田病院を視察した。山田病院は豊間根との中間にある運動公園にできた仮設建物であるが、奥側に入院病室がある。続いて山田町の中心部に移動し、防潮堤や嵩上げ工事、復興公営住宅などを確認、町役場裏手に建設された近藤医院と介護施設さくら山(旧・シーサイドかろ)を視察した。その後、沿岸部に戻り45号に沿い、賑わう商店街、建設中の災害公営住宅、織笠地区の沿岸部の復興状況を確認した。
2018年4月27日
震災7年後(2018年4月下旬)は、まず2016年9月に再建された県立山田病院に向かった。山田病院の北隣りには新設の山田消防署が、南側には新設の山田中学校がある。現在の山田町には小学校が3校(山田小、豊間根小、船越小)、中学校は山田中の1校で通学にはスクールバスが必要で多数のバスが待機していた。続いて陸中山田駅がほぼ完成しているのを確認した。駅の海岸側には商業施設「びはん」があり、その隣には銀行や信金、JAが集まっている。次にいつものように御蔵山から沿岸部の状況を確認した。沿岸部の防潮堤は工事中であるが、近くで見るととても規模が大きいことがわかる。
2019年5月5日
震災8年後(2019年4月下旬~5月上旬)は、大槌町から北上し、山田町船越(道の駅やまだ付近)に入り、そこから中心部に向かった。先ず、沿岸部の防潮壁を確認した。防潮壁は漁港と市街地を分割するように設置されている。続いて三陸鉄道として開通した陸中山田駅(旧・JR山田線)と、嵩上げされた土地にできた復興公営住宅を見て宮古市へ向かった。
2021年4月26日
震災10年後(2021年4月下旬)は宮古市から南下して山田町の北東部の大沢地区に入った。大沢地区は復興が進んでおり、国道45号に沿って多くの店舗が営業していた。完成した防潮堤に上ると大沢漁港や山田湾が一望できる。大沢地区の高台には防集ができているがその近くの大沢小学校は2020年3月に閉校している。続いて山田町の中心部に向かった。三鉄の陸中山田駅の隣には「ふれあいセンター(はぴね)」や郵便局も完成している。大型商業施設「びはん」の横にできた「まちなか交流センター」には「震災伝承ギャラリー」があり、小さいながらも山田町の被災状況と復旧についてわかりやすく説明している。次に震災以前から建つ漁協ビル前の陸閘から山田港に入ると漁港関連施設が完成していた。山田町には目立った観光施設はないが、着実にまちづくりを進めていると思われる。ただし住宅地については、まちの中心の宅地の嵩上げや災害公営住宅は完成しているが空き地も多い。次に船越の親和会の施設を眺めながら南下して大槌町浪板海岸に向かった。
2021年8月31日
震災10年後の2回目(2021年8月末~9月上旬)は、津波の影響のない豊間根の発展の可能性を視察した後、北から大沢地区、北浜地区、中心部、織笠地区、船越・田之浜地区の状況を確認した。豊間根は商店(「びはん」の支店)、保育所、小学校はあるが、歯科医院以外に医療機関がない。大沢、北浜、船越、田之浜はそれぞれに保育園や小さな商店はあるが、中学校や医療機関などはない。山田では中心部に大型商業施設「びはん」があり、山田病院が再建され、小中学校も豊間根小、船越小を除いて中心部に統合されている。
【山田町】
津波 |
浸水高 |
約8~10m |
遡上高 |
船越で約15m |
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死者(関連死)行方不明者(2021年3月) |
832人(関連死83人) |
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人口推移 |
2010年 |
18,617人 |
2020年 |
14,443人 |
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増減率 |
-22% |
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主要地域 |
豊間根、大沢、北部、中心部、織笠~船越~田之浜 |
〇被害状況と復旧状況
・全体
・津波被害は大沢、中心部の北部、中心部のほぼ全域と、織笠~船越~田之浜
の沿岸部である。
・豊間根
・内陸で被害はない。
・福祉施設「親和会望みの園はまなす(元は船越のシーサイドカロに併設され
ていた)」や商業施設「びはん」の支店ができた。
・小学校・保育所はあるが中学校が閉校(2020年)。
・大沢地区
・沿岸部は壊滅的な被害。
・防潮堤や漁港が完成。
・復興公営住宅と商業施設が45号沿いにできた。
・保育園はあるが高台の大沢小学校の廃校は残念、小学校付近には防集もある。
・中心部・北部
・ほぼ全地域が壊滅的被害で、旧・山田病院は1階が浸水して孤立したが、
停電・断水の中で診療を継続した。その後は運動公園での仮設診療所を経て、現在は高台へ移転。旧・山田病院は解体された。
・嵩上げ地に災害公営住宅が2ヵ所できた。
・商業施設(コメリやキクコー(スーパー))ができた。
・中心部
・山田湾に沿って中心部があり、壊滅的な被害。やや高台にある町役場は浸水
範囲外で無事。
・高い防潮堤が完成、大規模な漁港・水産加工施設が復旧。
・大型店舗「びはん」が完成。
・三陸鉄道(旧・JR山田線)の山田駅が復旧した。
・駅付近に住宅も戻り始めているがまだまだ。
・小学校6校(大沢、山田北、山田南、織笠、轟木、大浦)を統合し
山田小とした。ほかには豊間根小、船越小。
・高台に統合した中学校や、新・山田病院、その近くの高台に戸建て
の復興住宅(第1団地7ha)がある。
・織笠~船越~田之浜
・織笠は高台の織笠小学校や保育園を除いて壊滅的な被害、織笠駅も消滅し
移転。
・新・織笠駅の近傍に防集と復興公営住宅。
・船越では住宅は浸水範囲外にあり、被害が小さい。
・対岸の浦の浜の低地の介護施設「シーサイドかろ」で入所者・職員合わせて
88名が避難の遅れで亡くなった。現在は内陸側や高台に移転している。
・船越小学校は嵩上げして復旧。
・田之浜は高台の住宅地域を除き、漁港とその付近の住宅は壊滅的な被害。
高台の住宅地域は無被害。
・田之浜漁港は復旧した。
・田之浜の防集は小規模で数カ所に点在している。
〇10年間の視察結果と感想
・町の中心地区では漁港の外側に高い防潮堤を設け、国道45号よりも内側を
嵩上げて商業施設や復興公営住宅を置き、医療機関や介護施設や住宅(防集)
は高台に建設している。
・サテライトは豊間根、大沢、船越~田之浜。
・時間がかかったが、全体の方向性は見えてきた。
・人口1万4千人のまちづくりが進んでいると思われるが、内陸の豊間根を
拠点(中心地)とする方法もあった。